皆野町

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重要文化財(町指定)

( )内の年月日は文化財に指定された日にちを表示しています。
指定年月日に続く記号は文化財マップの位置を表します。

有形文化財


■萩神社の石鳥居
(平成14年12月26日/D-2)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢字天沢2647
『北武蔵名跡志』に「出牛村萩宮石鳥居は、永禄十年(1567)に建てられた。しかし彫りが古くてはっきりしない。」とあります。また『秩父の石仏』では「柱も割合に太く、県下に数多く見られるやさ形の石鳥居に比べてみると、ずっしりとした落ち着きもあり、武蔵では一級品であろう。」といっています。年号は神社に向かって左側の柱に刻まれています。
萩神社の石鳥居

■薬王寺薬師三尊像
(昭和38年10月1日/C-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字野巻186
薬王寺薬師堂の本尊薬師如来、脇侍の日光・月光菩薩をいいます。薬師如来は坐像で、像高44p、台座27p、脇侍の日光・月光菩薩は立像で、像高51p、台座15pです。本尊胎内左側面に墨書銘が見られ「奉於……一經其目応永廿六年八月□□光貞」と読めます。薬王寺本堂の本尊は不動明王ですが、寺名の醫王山薬王寺は、山号寺号ともに薬師に由来すると思われます。
萩神社の石鳥居

■円福寺十一面観音
(昭和59年4月1日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293
円福寺の本尊は阿弥陀如来で、左脇侍に観音菩薩、右脇侍に勢至菩薩を配してあります。観音菩薩は十一面観音で、像の高さ66cm、台座18.5cmです。如来の台座には、天明元年(1782)の紀年銘があり、勢至菩薩も同時代の作と見ることが出来ます。しかし、十一面観音は形も時代も全く異なり、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した、仏師の1系統である院派(仏師集団)の仏師の作であると思われます。
萩神社の石鳥居

■赤城大神社の懸仏
(平成14年12月26日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下田野1352
懸仏は、もと下田野字戦場にあった天神様に祭られていました。「天神様のいちばん奥まったところに祭られ、直径六寸(約15cm)ばかり」と享和2年(1802)の文献に記されています。今はその天神様はありません。この懸仏には、「天神の御正体」と刻み、蓮の花の上に十一面観音の文字が刻まれ、年号は、嘉吉2年(1442)12月吉日とあります。
赤城大神社の懸仏

■宮前家文書
(昭和38年10月1日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字金崎102
宮前家は、金崎村の名主を代々勤め、『新編武蔵風土記稿』ににも記録が残る家系です。宮前家は酒造業を家業としたので、酒造関係文書が目立ちますが、佐右衛門が算数を得意とし、自ら作成した享和元年の金崎村絵図と共に測量用具も併せて指定しました。

■金室家文書
(昭和41年4月25日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字大淵492
金室家は、江戸時代初期より代々大淵村の名主を勤めました。「北条氏政書簡」、慶長3年(1598)の「武州秩父郡大淵ノ村地詰御坪入帳」の他、多くの近世文書を伝えています。特に材木川下げに関する文書は、隣村野巻村(現皆野町大字野巻)の逸見家文書と併せて、赤平川筋の材木川下げの様子を知る上で貴重です。

■関根家文書
(昭和41年4月25日/F-7)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢2078
三沢村の名主は、上、中、下3つの郷より出て輪番で勤めましたが、関根家は世襲名主として勤め、初代十兵衛以降苗字御免でした。文書の中では、年貢割付状が多く、天保3年(1646)から明治3年(1870)まで146通が残っています。

■持田家文書
(昭和59年4月1日/D-2)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢2136
持田家は、代々金沢村金沢組の名主を世襲し、金沢村の代表としても代官所との諸連絡に当たっていました。明治以降も、金沢村戸長や金崎連合戸長も勤めています。文書は江戸中期から明治初期にかけておよそ200年に渡る村政、治安、戸口を中心としたものが残っています。

■駒形遺跡出土山形土偶
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
この土偶は昭和58年に行われた駒形遺跡第3次調査(皆野総合センター拡張工事)の際に発見されたました。普通の土偶は、頭、手、足、胴体などの体の1部分が発見され、同じ遺跡から発掘された部品が接合することはほとんどありませんが、この土偶は、頭からつま先までの部品がそろっており、全体が接合されました。

■柳瀬古墳群1号墳出土鉄製品
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
平成3年に発掘調査が実施された古墳時代後期(7世紀前半)の小規模古墳の1つで、出土品に比較的多くの鉄製品が認められました。馬具(環状鏡板付轡・絞具)、胡緑金具、鉄鏃、刀子などが出土しています。なかでも胡緑は、県内でもほとんど出土例のない遺物として貴重な物と考えられます。

■駒形遺跡出土線刻画のある土器片
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
昭和45年に発掘されました。縄文時代後期(約3500年前)の堀ノ内式土器の胴下半部に描かれたもので、磨かれた器面に、焼成前の線刻が施されています。縄文時代は抽象的な画が多く、水鳥、弓矢を引き絞る狩人など、写実性のある画は非常に珍しいものです。

■夏内遺跡出土長頸壷
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
10世紀頃に作られた灰釉陶器と呼ばれる焼き物です。古墳時代の中頃(5世紀頃)に朝鮮半島から技術が伝えられた須恵器と呼ばれる焼き物が発達したもので、登窯を用いて生産されます。窯内の温度は1200度以上という当時としては、限界に近い高温で焼成されています。長く伸びた口縁部から肩へかけて施された釉薬は、わら灰が用いられたものと考えられます。

■大背戸遺跡出土土製品
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
昭和37年、中学校建設時に発掘調査がおこなわれました。当時、敷石住居跡が非常に多く発見され、縄文時代研究者をはじめ、考古学会からも注目を集めました。縄文時代中期(約4500年前)から後期(約3500年前)にかけて縄文のムラとして栄えた場所で、隣の駒形遺跡や新井遺跡をあわせた範囲がムラの全体像と考えられます。


■伝金崎古墳群出土直刀
(平成5年5月28日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
金崎古墳群は、長瀞町境近くの荒川左岸の河岸段丘上に立地しています。この金崎古墳群から出土したと伝えられる直刀が、長い間国神小学校で大切に保管されていましたが、昭和50年に教育委員会へ移され、その後の保存処理で銀象嵌が施されていることが判りました。現在のところ秩父盆地内で象嵌の施された直刀は国神地区から発見されたもの2点が知られているだけです。

■大澤家の石幢付像容の石堂、宝篋印塔残欠
(平成12年10月26日/C-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字野巻482
天文5年(1536)の紀年銘があります。安山岩を加工して作られ、竿の部分が後世に作り直されていますが、町内にある石幢としては、唯一完全な形で見られる重制石幢です。地元に残される言い伝えでは、薬師様を祭ったお堂があり、石幢はかつてそのお堂脇に建立されていたと云われています。室町時代の墓制や信仰を知る上で重要な資料です。

■平有行の実名板碑
(平成14年12月26日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野1423
高さ54cm、幅30cm、厚さ2cmの板碑です。完全な形ではありませんが、一番上に観音菩薩と勢至菩薩の梵字と蓮の花が読み取れます。その右下に偈文がありますが、「願以比功□……」としか解りません。年号は左側に「正和5年(1316)9月8日」と記され、そこに「平有行」という実名が刻んであります。実名(本当の名前)を刻んであるのは皆野町ではこの1基だけです。
平有行の実名板碑

■薬師免遺跡出土板碑
(平成14年12月26日/F-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢627、正光寺
昔ここに薬師堂があって、税金を免れていたので「薬師免」と呼んでいます。昭和10年ころ道路工事の時、この墓地を発掘しました。出土した板碑は8基、その内年号の解るのは「建武4年(1337)」と「康暦2年(1380)」2基で、共に南北朝ころのものです。4基は完全な形のもので、2基は破片です。完全な形のものは時代的に新しさが感じられます。
薬師免遺跡出土板碑

■薬師免の自然石板碑
(平成14年12月26日/F-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字小根4075-1
この板碑の石は普通の河原石で、しかも、梵字は大日如来です。俗に変形板碑といわれ、この変形板碑が三沢に三基あり、全部が寺や堂などを作った時に建てられています。その中で年号がはっきりしているのがこの板碑で、碑の中央に大きく蓮の花と大日如来の梵字が刻まれ、その下に「文保元年(1317)十月十日」と刻まれています。
薬師免の自然石板碑

■水戸征討記念碑
(平成14年12月26日/F-6)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字枝ノ沢1753
元治元年(1864)に水戸(茨城県)で「天狗党の乱」があり、外国を追い払おうとする一派と、徳川幕府との争いです。忍藩は幕府方でしたので、藩主の松平下総守の求めに応じて、三沢の猟師たちが、この戦いに従軍しました。そして、無事に故郷へ帰ってくることができたので、それを記念してこの碑を建てました。
水戸征討記念碑


(平成14年12月26日/D-5)

五輪塔は、平安中期頃から供養塔、墓石として用いられました。この塔は、室町時代中頃の墓で、地輪に「明応三年(1494)五月一五日□□禅尼」と刻まれています。近くには宝永7年(1710)に建てられた薬師如来が祀られ、健康を守る仏として地域の人たちに厚く信仰されてきました。

■下田野西福寺の光明真言塔
(平成14年12月26日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下田野字寺ノ前1223-1
高さ142cm、幅126cmの堂々としたもので、塔のまんなかに五つの梵字、そのまわりに光明真言の梵字が刻まれています。光明真言塔としては、当町でもっとも大きいものと考えられ、梵字も整然と書かれ、しかも力強く刻まれています。民間信仰の貴重な文化財だといえます。
下田野西福寺の光明真言塔

■石井家の一石五輪塔
(平成14年12月26日/D-2)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢字新谷平2509-2
五輪塔は、四つの部分を積んで出来ていますが、この五輪塔は一つの石に全部が刻んであります。一石五輪塔といわれれるのはそのためです。材質はこの付近の砂岩です。高さ43cmと小さなものですが、全体がひきしまっていて重量感があります。年号は刻んでありませんが、室町時代の末(16世紀)ごろのものと思われます。
石井家の一石五輪塔

■出牛西福寺の五輪塔
(平成14年12月26日/D-1)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢字出牛196
この塔は、室町時代中ごろのお墓で総高97cm、火輪の幅32cm、安山岩を用いています。地輪に「延徳四年(1492)壬子二月十七日元佑法印」の銘文が刻まれています。室町時代のがっちりとした重量感のある形態です。西福寺の寺伝に創建天文3年(1534)とありますから、寺の歴史より古い造立です。当町を代表する五輪塔です。
出牛西福寺の五輪塔

■曲木の宝篋印塔
(平成14年12月26日/F-7)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字新林5380-1
この宝篋印塔は基礎が三基積み重ねてあり、別々の宝篋印塔が三基あったことになります。「基礎(1)」には貞治4年(1365)の年号、「基礎(3)」には康暦3年(1381)の年号が刻んであります。貞治4年の宝篋印塔は、曲木に修験道場を開いた「政近法印」、そして康暦3年のものは夫人の「徳屋禅尼」のものと考えられます。
曲木の宝篋印塔

■曽根坂一里塚の阿弥陀塔
(平成14年12月26日/F-7)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字四万部山2752-1
碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んであり、塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と書いてあります。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左へ行くのが、四万部(札所一番)道です。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありました。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とあります。江戸からの秩父巡礼の始まりは、このころだったと考えられます。
曽根坂一里塚の阿弥陀塔

有形民俗文化財


■椋神社獅子頭
(昭和38年10月1日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野238
真言宗智山派円福寺の土蔵に保管され、戦後、椋神社に移管される時に発見されたのがこの獅子頭です。椋神社は円福寺の鎮守だったと言われ、奉納した獅子舞の道具の内、上郷の一式は円福寺の土蔵に保管されていたようです。獅子頭は3頭あり、いずれも下顎が欠損し、俗に重箱獅子と言われる長方形の箱形です。他に太鼓の胴3、花笠の枠2、万灯1があり、桃山時代の作と伝えられています。

■正法寺観音堂の大絵馬
(昭和59年4月1日/D-3)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢1091
「玉とり姫」の物語を絵柄とする縦170cm、横210cmの大絵馬で、勝川春清という絵師の作です。絵師の人物、絵馬の施主、時代などいずれも不明です。正法寺は、往古秩父札所巡礼者が、中山道本庄、上州方面から入る時に最初に立ち寄る習わしになっていたと言われ、観音堂様は、札所巡りのお手引き観音とも言われて来ました。
諏訪平の己巳塔

■住吉社の大絵馬
(昭和59年4月1日/D-1)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢2696
天沢峠を出牛方面に下がった三差路にある元住吉社遙拝所に掛けられた絵馬で、社の創立縁起を描いた、縦90cm、横190cmの大絵馬です。絵柄は、奥宮の御神体とした「住吉大神」の石碑を担ぎ上げた行列の模様で、土地の若衆中の求めにより、郷土の画家金谷が描き、明治31年10月に奉納されました。

■諏訪平の己巳塔
(平成14年12月26日/D-2)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢字新平835-2
己巳(キシ)の日、講中で集まり精進する行事を巳待講といい、その供養に建てられたものです。甲嶺居士謹書とあり、書、刻とも三沢の野沢禽斎とわかります。背面に「享和二年(1802)壬戌四月金沢邨上郷講中」とあります。石は、金沢みかげ(火成岩)といわれる巨礫で、高さ136cm、幅93cmです。
諏訪平の己巳塔

■岩下の庚申塔
(平成14年12月26日/F-7)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字六地蔵2009-1先
庚申塔としては町内屈指のものと考えられ、高さ166cm、幅73cm、厚さ65cmあります。中央に大きく「庚申塔」と彫られ、風格を持った気品のある彫刻です。左の側面に「文化元年(1804)の二月に、亀田鵬斎という学者の書いた庚申塔の文字を、野沢禽斎が彫刻した」と記してあります。
岩下の庚申塔

■武蔵川大治郎の碑
(平成14年12月26日/F-6)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字六地蔵5795-1
武蔵川大治郎は文政6年(1823)三沢の関口家に生まれました。小さい時から体格に優れていて、田舎相撲の横綱になりました。その後、妻や子を残して江戸相撲を志しました。安政6年(1859)に十両、文久3年(1863)には武蔵川を襲名して、次の年に待望の前頭になりました。この碑は当地の蛇紋岩を用い、郷土の弟子たちによって建てられました。
武蔵川大治郎の碑

無形民俗文化財


■金崎神社獅子舞
(昭和59年4月1日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字金崎108-1
金崎神社の祭礼に舞われます。曲目は、かつて31庭でしたが、現在は17庭です。子どもざさら4庭、お神楽、うねり、大狂い、三つ巴、花掛り、幣掛り、弓掛り、笹掛り、友ぐるい、剣掛り、四本立(女獅子隠)、花狂い、竿掛りがあります。獅子頭は、塗獅子で、男獅子は黒と白の鳥羽根に鹿角を立て、女獅子は白と茶の鳥羽根、頭頂に宝珠を置きます。

■国神神社獅子舞
(昭和59年4月1日/D-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字国神709
10月10日、国神神社(金比羅神社)の祭礼に舞われます。国神と金崎は、かつて金崎村と言う1つの村で、上郷と下郷に分れていました。獅子舞も上郷組と下郷組に分れていましたが、元々一体のもので、共に金崎神社に奉仕していました。金崎神社獅子舞の項に記した曲目の内、花狂いと竿掛りは組ざさらといい、上下双方の組から舞人を出して奉納しました。笹掛りは下郷の、四本立は上郷の代表的曲目でした。

■門平獅子舞
(昭和59年4月1日/B-3)
埼玉県秩父郡皆野町大字上日野沢門平地区
10月14日、日野沢大神社奥社(元門平耕地の鎮守大山神社)の祭礼に舞われます。神ザサラと庭ザサラに分かれ、神ザサラは15歳未満の男子が舞うのが慣例で、奥社から始めて集落の中、数か所の神社を巡拝して1庭ずつを奉納します。庭ザサラは、奥社に戻って成人男子が舞います。花笠は、初潮前の娘が勤める習慣で、男女を問わず、この耕地に生まれ育った者は、獅子舞の役割を通過します。

■奈良尾獅子舞
(昭和59年4月1日/B-3)
埼玉県秩父郡皆野町大字上日野沢奈良尾地区
10月14日、耕地の鎮守秋葉神社の祭礼に舞われます。かつて神の舞6座、庭の舞13座がありましたが、現在、神の舞は、神社境内で天王院、榛名山、お諏訪様、天神様の4庭を、庭の舞いは、公会堂の庭に注連を張って9庭を舞います。弊掛り、剣掛り、弓掛り、まり掛り、花回り、花狂い、二本立、友狂い、幕掛りで、幕掛りは奥義で師匠格が舞います。獅子頭は龍頭形式の貼り獅子で、毎年塗り替え、張り替えを行います。

■重木獅子舞
(昭和59年4月1日/B-3休止中)
埼玉県秩父郡皆野町大字下日野沢重木地区
諏訪神社で行われますが、現在は後継者不足で中止しています。神の舞1曲を神前に奉納し、公会堂前で庭ざさらを舞います。神楽、うねり、花遊び、弊掛り、剣掛り、竿掛り、まり掛り、花掛り、天竺、花廻り、四本づくし、弊狂い、新ザサラの13曲です。1庭の舞の形は、ひんまわし、休み、入れ庭、休み、歌前の舞、休み、歌舞、休み、本幕、休み、引庭と休みが多く、勇壮活発な舞振りであることが伺えます。

■下三沢諏訪神社獅子舞
(昭和59年4月1日/F-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢726
10月7日、下三沢の鎮守諏訪神社の祭礼に舞われます。曲目は、弊掛り、割ザサラ、奥ザサラ、花割り、竿掛り、四ツ替り、段づく、四句割り、下妻、瓢箪廻し、四庭寄せです。四句割り、下妻、瓢箪廻しを3役と言い、祭り最高潮の時に舞われ、最終の四庭寄せは、獅子2組、仲立ち2人の合わせて8人で舞います。祭礼の他、雨乞いのためにも舞われたと言います。

■皆野椋神社神楽
(昭和59年4月1日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野238
秩父神社系の神楽で、明治14年蒔田神楽から習ったものと言われています。皆野根岸の稲荷社に起こり、明治40年椋神社に合祀されてからも、神楽は旧稲荷社氏子の父子相伝で、諸道具も耕地持ちのまま椋神社祭礼に奉納され、昭和35年頃椋神社に寄付されました。装束や面は、能衣装や能面が使われ、秀れた作が多く、4月7日、10月7日に土京遙拝所で、4月8日、10月8日、節分祭に本社の皆野椋神社で舞われます。

■日野沢大神社神楽
(昭和59年4月1日/C-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下日野沢3543-2
10月15日、日野沢大神社大祭に舞われます。明治14年、太田村熊野神社の神楽師により伝受されました。この頃秩父神社の神楽は中断されており、秩父神社祠官園田忠行が妻の里方である下日野沢村千廼宮祠官高橋富里に神楽団の組織と秩父神社への奉納を依頼したものであり、日野沢神楽団は秩父神社直属の神楽団として発足しました。昭和4年秩父神社に神楽団が復活すると共に秩父神社への奉仕も終わりました。

■出牛人形浄瑠璃
(昭和59年4月1日/D-1)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢出牛地区
出牛人形浄瑠璃は文楽系の3人遣いの人形芝居で、幕末の頃を最盛期として、明治中期には上州方面でも興行したと言います。しかし、大正5年春、萩神社境内での上演を最後に出牛人形座は解散しました。昭和40年、埼玉県立文化会館での埼玉文化祭人形の歴史展に出品を求められ、これを機会に人形芝居復活の気運が起こり、厳しい練習の後、昭和42年11月西福寺に掛けられた舞台で復活しました。

■下田野あんどんまち
(昭和59年4月1日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下田野地区
3月第3日曜日と前日に行われる赤城大神社の祭で、元々は、西福寺で始められた行事と言われる百八灯の精霊祭です。甲斐武田勢との戦いで討ち死にした鉢形北条の武士や農民の霊を慰める為に始まったと言われ、赤城大神社の参道に立つ300余のあんどんに夕暮れ一斉に灯がともります。行灯に描かれる絵は、地元の画家や主人が描きましたが、近年は、子供たちの好きな漫画の主人公が描かれることも多くなりました。

■立沢の虫送り
(昭和59年4月1日/A-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字上日野沢立沢地区
8月16日に行われます。七夕飾りを集会所に持ち寄り、長い竿竹に取り付け、先端には幣束を差し込んで3本の梵天を作ります。長老が五色旗と幟旗を用意し、昼食後、集会所に各戸1人ずつが集まり、御神酒をいただいてから、梵天を先頭に旗を持ち、笛、太鼓を鳴らし、唱えごとを唱えながら地区を回ります。一周すると、梵天の幣束とノロセを外し、世話役が村境までくだり、吉田町との境をなす阿熊川へ流し送ります。
立沢の虫送り

■門平の虫送り
(昭和59年4月1日/B-3)
埼玉県秩父郡皆野町大字上日野沢門平地区
8月16日に行われます。シンコの笹竹に七夕に作ったノロセと炒りさごを吊し、送り竹を作ります。炒りさごは麦、大豆、粟などを炒り、一つまみの紙捻にしたもので、家族中の体を撫で、体に付いた虫を封じ込めます。各戸から子どもたちが送り竹を持って集まり、大人を先頭に行列を組み、笛や太鼓を従え、虫送りの唱えごとを唱え地区を練り歩きます。最後に世話人2人が送り竹を束ね地区境に立て掛けて帰ります。
門平の虫送り

史跡


■平将平の墓
(昭和38年10月1日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293
『新編武蔵風土記稿』に、「円福寺 平量山量寿院 此寺ハ郡中仏法最初ノ道場ナリ平親王将門ノ開基ナリト云伝フ将門墓五輪上ノ二ツ今毀折シテ文字読ムヘカラス」とあり、開基も墓も平将門としています。寺に残る『円福寺旧来記』では開基、墓とも将門の実弟将平のものであるとしています。町では旧来記を採って将平の墓としました。

■平重能の墓
(昭和38年10月1日/D-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293
秩父氏は桓武平氏の末に当たり、武蔵守を勤めた平良文(村岡五郎)の子孫に当たります。秩父庄司重能は秩父にあって代々武蔵総検職を世襲していた秩父権守重綱を祖父に、秩父太郎太夫重弘を父に秩父氏館(吉田町)で生まれました。秩父庄司として武蔵総検職を世襲しましたが、後に畠山庄司として男衾郡畠山(大里郡川本町畠山)に移りました。

■小平の一里塚跡
(昭和38年10月1日/F-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢782
徳川家康は、慶長9年(1604)に5街道の整備を行い、主要道は道幅5間、1里を36丁と定め、1里ごとに塚を築かせ榎を植えて一里塚としました。この一里塚跡にも榎の古木が残り、樹齢300年と推定されます。中山道の支道、熊谷通りを寄居で分かれ、釜伏峠を越えて川越通りに合流する道中に築かれた塚です。街道を「右はちがた、よりゐ、ふかや、左のがみ、でうし、よしだ道」の道標は、昭和43年7月盗難に遭い今はありません。

■平草の一里塚跡
(昭和59年4月1日/G-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢94
一里塚が字名となって残り、皆野町大字三沢字一里塚に残る一里塚跡で、熊谷通りを寄居で分かれ、釜伏峠を越えたところにあります。付近に新道ができ、別荘の開発などもあって周囲の様子は変わりましたが、残った石造物から三方の辻であったことを知ることが出来ます。

■秩父観音霊場札所三十四番水潜寺
(昭和59年4月1日/C-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下日野沢3522
の札所は、秩父観音霊場三十四番、日本百番(西国、坂東、秩父)の結願寺として、巡礼者が打留の札と笈摺を納める寺です。千手観音を本尊に、西方浄土を表す阿弥陀如来、東方瑠璃光世界を象徴する薬師如来を脇侍に配し、日本百番結願寺の特色をよく表しています。

■小池氏館跡
(昭和59年4月1日/E-5)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野143
館跡は、中世の姿をよく残しています。東は蓑山の裾を利用し、背面北側は堀を巡らし、土居をあげた中世の遺構を残しています。庭園は、『新編武蔵風土記稿』に、「郡内第一ノ庭ト云テ、カナタコナタヨリモ游覧セルモノ多ク来ル……」とあり、中世築庭様式を見せています。小池氏については諸説があり、甲州より移住し北条氏邦に仕え、ここに居住したと伝えられます。

■阿佐見氏館跡
(昭和59年4月1日/C-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下日野沢1278、1279
館跡は日野沢川左岸に南面した山腹に立地し、傾斜地に築いた石垣は2重3重に巡らされています。その角々には3か所の「食い違い門」が設けられ、石垣の上には更に土塀が続いていたと言われています。石畳もそのまま残り、江戸時代初期の郷士の居館をよく偲ぶことが出来ます。『新編武蔵風土記稿』に記された文書から、元禄の頃館の普請が終わったと考えられます。

■駒形遺跡
(平成11年11月1日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野2227-1、-10
駒形遺跡は、北へ向かって流れてきた荒川が、町のほぼ中央部で宝登山にぶつかり、東へ流れを変えた右岸の河岸段丘上に位置します。史跡の範囲は約2,400uですが、遺跡全体の面積は約15,000uの広がりを持っています。隣の大背戸遺跡や新井遺跡もほぼ同じ時期の遺跡と考えられ、全体では35,000uほどの町内最大規模の集落跡となります。

天然記念物


■加増のエドヒガン
(昭和41年4月25日/C-1)
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢2849
若林家では、およそ300年前鑑賞樹として庭に植栽したものと伝えています。樹勢にそれ程衰えを見せず、4月の初め他の桜にさきがけて、5弁の微紅色の花を散形状に5〜6付けます。目通り周囲3m、高さ8m、この様な大樹の生存は稀であると言います。また、我が国における北限は秩父地方と考えられており、このエドヒガンが最北限と思われます。

■赤城大神社社叢
(平成14年12月26日/E-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字下田野字中居919-1
社叢というのは「神社の森」のことです。この赤城大神社には、大きく立派な木がたくさんあります。樹齢は特定できませんが、260〜270年の歴史を見続けてきた社木です。
赤城大神社社叢

■平草のキリシマツツジ
(平成14年12月26日/G-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字平草213
キリシマツツジは、ツツジ科の常緑低木です。指定のツツジはいずれも株立ちで、3本、8本、14本立ちの3株です。高さはそれぞれ1.5mほど、枝張りもそれぞれ東西南北ともに5m。4〜5月に紅色のみごとな花をつけます。
平草のキリシマツツジ

■平草のイヌツゲ
(平成14年12月26日/G-4)
埼玉県秩父郡皆野町大字三沢字平草213
イヌツゲは、モチノキ科の常緑低木ですがときに高木となります。この木は根回り2.7m、高さ5.1m、枝張り約六mの巨木です。雌雄異株でこの木は雄株です。5月上旬に開花します。
平草のイヌツゲ
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