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秩父音頭と皆野町

皆野町の地勢

皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村、北は長瀞町と本庄市、南と西は秩父市に接しています。

町中央に独立峰である美の山を抱え、周辺には大霧山、皇鈴山、宝登山、城峯山、破風山などの山々が控えます。奥秩父に源を発する荒川に赤平川、日野沢川、三沢川が注ぎ、右岸側には開けた河岸段丘が形成されて町の中心部を形成しています。

町中心部を国道140号線と秩父鉄道が走り、皆野寄居バイパスや県道10路線ととともに交通の要所となっています。都心から80㎞圏域に位置し、鉄道利用で東京へは約2時間で連絡します。

  • 札所巡り

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  • 天空のポピー

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    美の山

秩父音頭と金子伊昔紅(いせっこう)

人に恵まれ花開く

群馬の八木節、栃木の日光和楽踊とともに関東三大民謡に数えられる秩父音頭は、秩父に古来から伝わる盆踊り唄に、町内の医師であり俳人であった金子伊昔紅が手を加えることで生まれました。

もともと盆踊りは踊り、歌ともに決まった型があるものではなく、長い年月で流行ったものを取り込み、変化しながら伝えられてきたものです。しかしながら伊昔紅が見た盆踊りは公の場で踊って見せることができるものではなかったといいます。

伊昔紅が手直しを始めたのは昭和初期、歌詞は伊昔紅が自作するとともに、公募を行いました。

~花の長瀞あの岩畳 誰を待つやらおぼろ月~

~秋蚕しもうて麦まき終えて 秩父夜祭待つばかり~

などは伊昔紅の作です。節は木挽き唄の名手とうたわれた吉岡儀作を唄い手、伊昔紅を聞き手として直接対面しながら手を加え、振りは秩父の盆踊りの歴史をさかのぼることでその原型を捉え直そうとしたといいます。

このようにして生まれ変わった秩父音頭は円明寺境内で町民に披露されるとともに、昭和5年には「秩父豊年踊り」として明治神宮遷座10周年記念祭に奉納、一躍世間に知られるようになりました。昭和8年には帯広市で開催された全国レクリエーション大会に秩父音頭として出場、1位に輝くとともにレコードへの吹き込みも行われ、全国に紹介されました。この頃伊昔紅は金子社中を結成しており、以後伊昔紅が没し、皆野町秩父音頭保存会と合流するまで活動の中心的な存在となります。
昭和25年には埼玉県下の小中学校の体育教材として採用され、埼玉県の代表的な民謡としての地位を築きました。正式に「秩父音頭」という名称が採用されるとともに、現在の演技指導でも用いられる「右左、チョンチョンチョン、ながめてパー、かいぐりパー、かむってスー」の順序がつくられたのもこの時です。

秩父音頭の手振り身振りには秩父の生業である養蚕や農耕の仕草が、また屈伸を伴う動作には峠を生業の場として生きた人々の足腰の強さがあらわれているといわれます。一方で昭和5年以降も昭和16年、30年、34年、47年と歌詞公募は続いており、秩父音頭は古来から培われてきた秩父の風土と、今を秩父に生きる人々の想いを反映し続けてきたと言えるでしょう。

伊紅昔の長男である兜太は秩父音頭に寄せて、「民謡とは(中略)正統維持と同時に、その時代に適した修正をすることにより末永く歌い継がれていくものだと思う。ともかく、秩父音頭は町の努力をはじめ、人に恵まれて花開いた」と述べています。

秩父音頭まつり

秩父音頭まつりは皆野町最大の祭りで、約50年前から毎年8月14日に開催されています。
中心となるのは「秩父音頭流し踊りコンクール」で、県内外から多くのチームが参加して流し踊りを披露します。各チームは皆野駅前の第一会場からスタートし、特設の櫓がある本会場までを踊り歩きます。最後のチームの踊りが披露される21時頃には、美の山から打ち上げられる花火が夏の夜空を彩りフィナーレを飾ります。(さいたまつりHPより抜粋)

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