群馬の八木節、栃木の日光和楽踊とともに関東三大民謡に数えられる秩父音頭は、秩父に古来から伝わる盆踊り唄に、町内の医師であり俳人であった金子伊昔紅が手を加えることで生まれました。
もともと盆踊りは踊り、歌ともに決まった型があるものではなく、長い年月で流行ったものを取り込み、変化しながら伝えられてきたものです。しかしながら伊昔紅が見た盆踊りは公の場で踊って見せることができるものではなかったといいます。
伊昔紅が手直しを始めたのは昭和初期、歌詞は伊昔紅が自作するとともに、公募を行いました。
などは伊昔紅の作です。節は木挽き唄の名手とうたわれた吉岡儀作を唄い手、伊昔紅を聞き手として直接対面しながら手を加え、振りは秩父の盆踊りの歴史をさかのぼることでその原型を捉え直そうとしたといいます。
このようにして生まれ変わった秩父音頭は円明寺境内で町民に披露されるとともに、昭和5年には「秩父豊年踊り」として明治神宮遷座10周年記念祭に奉納、一躍世間に知られるようになりました。昭和8年には帯広市で開催された全国レクリエーション大会に秩父音頭として出場、1位に輝くとともにレコードへの吹き込みも行われ、全国に紹介されました。この頃伊昔紅は金子社中を結成しており、以後伊昔紅が没し、皆野町秩父音頭保存会と合流するまで活動の中心的な存在となります。
昭和25年には埼玉県下の小中学校の体育教材として採用され、埼玉県の代表的な民謡としての地位を築きました。正式に「秩父音頭」という名称が採用されるとともに、現在の演技指導でも用いられる「右左、チョンチョンチョン、ながめてパー、かいぐりパー、かむってスー」の順序がつくられたのもこの時です。
秩父音頭の手振り身振りには秩父の生業である養蚕や農耕の仕草が、また屈伸を伴う動作には峠を生業の場として生きた人々の足腰の強さがあらわれているといわれます。一方で昭和5年以降も昭和16年、30年、34年、47年と歌詞公募は続いており、秩父音頭は古来から培われてきた秩父の風土と、今を秩父に生きる人々の想いを反映し続けてきたと言えるでしょう。
伊紅昔の長男である兜太は秩父音頭に寄せて、「民謡とは(中略)正統維持と同時に、その時代に適した修正をすることにより末永く歌い継がれていくものだと思う。ともかく、秩父音頭は町の努力をはじめ、人に恵まれて花開いた」と述べています。
秩父音頭まつりは皆野町最大の祭りで、約50年前から毎年8月14日に開催されています。
中心となるのは「秩父音頭流し踊りコンクール」で、県内外から多くのチームが参加して流し踊りを披露します。各チームは皆野駅前の第一会場からスタートし、特設の櫓がある本会場までを踊り歩きます。最後のチームの踊りが披露される21時頃には、美の山から打ち上げられる花火が夏の夜空を彩りフィナーレを飾ります。(さいたまつりHPより抜粋)