※( )内の年月日は文化財に指定された日にちを表示しています。
※指定年月日に続く記号は文化財マップの位置を表します。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字金沢196 出牛浄瑠璃人形収蔵庫 | 昭和45年3月30日 | 要承諾 | D-1 |

出牛は、かつて中山道から秩父へ入る玄関口としてにぎわった宿場である。出牛人形の起源は明らかでないが、胴に文化8年(1811)、芸座に安政2年(1855)の銘があり、少なくともその当時から行われていたと思われる。人形の操りは、主遣い、左遣い、足遣いの3人からなる。首53点、手13組、足 13組、胴18点、衣装154点のほか、大道具、小道具が数十点ある。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野3602 | 平成20年3月14日 | 未公開 | E-5 |
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野238 | 昭和54年3月27日 | 要承諾 | D-5 |

毎年10月7・8日、椋神社例大祭の付祭りに舞われる3頭立ての獅子舞で、獅子頭は塗獅子、髪は栗毛のたてがみで、4組の頭がある。曲目は17庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子から最終の天狗拍子まで、舞踊的で様式的な美しさをもっている。1日の行事の中ほどには、中入りとして、2人立ちの大神楽獅子が境内を暴れまわり、それに道化が絡む。最終の天狗拍子は、12頭の獅子に4人の中立ちが加わり、十六人ざさらとも呼ばれ、各庭の舞いの形をすべて取り入れたものである。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野95 | 昭和33年3月20日 | 要承諾 | E-5 |

秩父市との行政境に近く、荒川右岸に形成された低位段丘に立地している。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残る。墳丘は、直径約30m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周する。深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字上日野沢1744-1 | 昭和33年3月31日 | 自由 | B-3 |

高札場は、領主が領民に対し禁止事項や法令を徹底させるために、これらの規則を板書きした高札を掲示した場所である。門平耕地のほぼ中央の辻に立てられており、江戸時代の上日野沢村の高札場である。無年貢地として、新設、修理ともに村の負担でまかなった。用材は栗を用い、屋根は杉皮葺であったが、昭和48年、保存事業として修復の際亜鉛葺とした。文政2年(1819)、門平耕地が火災に見舞われたときも、高札場は残ったと伝えられる。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字金崎2-1、15、17-1、110 | 昭和51年3月30日 | 部分 | E-4 |

金崎古墳群は、荒川左岸の河岸段丘上にある群集墳で、かつては8基以上の円墳があったといわれる。しかし、現在墳丘や主体部が残されているのは、大堺1号墳、大堺2号墳、大堺3号墳、天神塚古墳の4基だけである。大堺1号墳を除いて石室が開口しており、いすれも横穴式石室で、秩父地方に特徴的な長瀞系変成岩の板石や割石を使用し、巧みな技術で積み上げられている。天神塚古墳からは埴輪の破片、大堺3号墳からは土師器や須恵器が発見されている。これらの遺物と石室の形から、天神塚古墳が6世紀後半、大堺3号墳が7世紀初頭の築造と考えられる。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字国神577 | 大正15年3月31日 | 自由 | D-4 |

国神の大イチョウは、宝登山の麓、皆野町の中心部を一望する妙見平の地に位置している。樹齢700年を越えるといわれるイチョウの大樹は、目通り8.2m、高さ22.7m、枝張りは南北16.3m、東西12.7mを計る。 大イチョウの周辺には、かつて数基の古墳が所在したといわれており、このイチョウも知々父の、国造知々父彦命の墓の脇に植えられたものといわれている。東に40m程の地点には、一回り小ぶりなイチョウの木があり、こちらは、知々父姫命の墓の脇に植えられたという伝説が在る。実際にこの周辺の古墳から出土したといわれる土器や直刀が残されており、中でも国立東京博物館に所蔵されている環頭太刀の柄頭は、鳳凰の意匠が施され、銀象嵌も認められる非常に精巧な遺物である。
この場所は、毛の国(現在の群馬県)から児玉郡を通じて古墳文化が秩父盆地に流入する経路の一つと考えられる地点である。知々父へ赴任を命ぜられた知々父彦命が、当時の主要道である東山道を経て、毛の国から秩父盆地へ入国すると、最初に展望が開ける「国見の丘」と呼べる場所に当たっている。 イチョウの現況は、主幹の大部分が枯れた後、根際から新しく萌芽したものが、幹化し、一大株としてて繁茂したものである。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字大淵429、433-2 | 平成7年3月17日 | 自由 | D-5 |

前原の不整合は、秩父盆地ができはじめたころを物語る重要な露頭である。この露頭は、幅約20m、高さ15mの荒川に面した崖で、秩父盆地を構成する第三紀層が、秩父帯のジュラ紀の地層をおおっている様子が観察できる。
崖の左下に見える黒い岩石が秩父帯のチャートなどで、およそ1億5千万年前の地層である。ながい年月地殻変動の影響をうけたため、もろく割れやすくなっている。
その上に重なる白っぽい岩石が、秩父盆地を構成する約1千5百万年前の地層である。おもに石英や長石にとむアルコース(花崗質砂岩)で、下部は礫岩になっている。礫岩を構成する礫は、大小さまざまで、丸いものも角張ったものもある。礫の種類は、秩父帯のチャートや砂岩で、この近くに分布する岩石である。礫の間を埋めているのはアルコースである。このように、不整合面の直上にある礫岩は基底礫岩と呼ばれ、侵食の場から堆積の場に転じた最初の堆積物である。
この不整合は、いったん海底に堆積したジュラ紀の地層が、地殻変動により隆起し、陸上で風化浸食された後に再び沈降し、その上に第三紀の地層が堆積したことを物語っている。
ここでは、不整合面が明瞭で、地層の上下関係が広く立体的に観察できるので、学術的に貴重であるだけではなく、地質学の学習にも適している。
※不整合とは、年代の大きく異なる地層が重なっていることを示す用語で、それらの地層の境界面を不整合面といいます。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字上日野沢門平地区 | 昭和59年4月1日 | 指定日 | B-3 |

8月16日に行われます。シンコの笹竹に七夕に作ったノロセと炒りさごを吊し、送り竹を作ります。炒りさごは麦、大豆、粟などを炒り、一つまみの紙捻にしたもので、家族中の体を撫で、体に付いた虫を封じ込めます。各戸から子どもたちが送り竹を持って集まり、大人を先頭に行列を組み、笛や太鼓を従え、虫送りの唱えごとを唱え地区を練り歩きます。最後に世話人2人が送り竹を束ね地区境に立て掛けて帰ります。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字上日野沢立沢地区 | 昭和59年4月1日 | 指定日 | A-4 |

8月16日に行われます。七夕飾りを集会所に持ち寄り、長い竿竹に取り付け、先端には幣束を差し込んで3本の梵天を作ります。長老が五色旗と幟旗を用意し、昼食後、集会所に各戸1人ずつが集まり、御神酒をいただいてから、梵天を先頭に旗を持ち、笛、太鼓を鳴らし、唱えごとを唱えながら地区を回ります。一周すると、梵天の幣束とノロセを外し、世話役が村境までくだり、吉田町との境をなす阿熊川へ流し送ります。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野町下日野沢729 | 昭和51年10月1日 | 自由 | D-3 |

金沢川の支流勝負沢の右岸に位置し、昭和36年に発掘調査が行われました。洞窟は北東方に15mの間隔を持ち2口開口し、東側を第1洞、西側を第2洞としました。第1洞は、間口3.6m、奥行2.8m、発掘は深さ1.8mに達し、河原石で囲った炉跡2基と約200点の遺物が出土し、第2洞は間口4m、奥行2.5mで縄文早期、前期、中期の土器や石鏃、掻器、礫器等の石器も出土しました。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野町三沢2980、他 | 昭和51年10月1日 | 自由 | F-5 |

館跡は、外秩父山地、登谷山と二本木峠を結ぶ尾根から派生した尾根の末端、標高360mの頂きを中心に築かれています。東側斜面に多くの遺構が展開し、頂きの郭を囲むように深い堀と土塁が巡らされ、下方に縦堀とそれに交わる堀と土塁が配されています。その東には、尾根を切って長い縦堀が2条見られます。西側の尾根には縦堀と土橋、その間には平場が設けられています。北側は急崖で自然の要塞となっています。
| 所在地 | 指定日 | 公開 | 位置 |
|---|---|---|---|
| 大字皆野町皆野2227-1、他 | 平成11年11月1日 | 未公開 | E-4 |

荒川右岸に形成された河岸段丘上に位置します。荒川の流水面との比高18.5m、規模は南北300m、東西 120~170mに及ぶもので、発掘調査は3度行われました。第1次調査では、縄文中期の竪穴住居跡3軒、後期の竪穴住居跡1軒、称名寺式の埋甕を伴った石棺状組石2基、第2次調査では、敷居住居跡と土壙、第3次調査では、敷石住居跡1軒、集石遺構2基、土壙9基が発見されました。
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