2019年12月5日
今回から数回にわたり「秩父新聞からみる秩父音頭と俳句」と題し、秩父新聞の記事をとおして、秩父音頭や俳句に関わったさまざまな人々の動きを紹介します。第1回目は金子伊昔紅を取り上げます。
秩父新聞は昭和2年に第1号が発刊された新聞で、秩父の基幹産業であった繊維業界の動向や秩父の歴史・文化に関する記事が掲載されました。デジタルミュージアム用に採集した記事の内、中心となる昭和40年代~昭和50年代には月3回(5日・15日・25日)発刊されていました。
文化面には浅見清一郎、清水武甲、栃原嗣雄、小林茂各氏をはじめとする著名人の記事をはじめ、金子伊昔紅氏を中心とした皆野俳壇、秩父馬酔木会、七彩会、および秩父俳壇の動向が詳細に記されています。
当記事の掲載にあたり、秩父市立図書館さまには大変お世話になりました。この場を借りて心から感謝申し上げます。
昭和21年8月22日に掲載された、秩父新聞主催「第1回紙上文芸作品展」の記事です。短歌と俳句の2部門で募集したもので、金子伊昔紅氏が俳句の選者となっていました。
応募された作品中、天位には城一佛子こと渡邊浮美竹氏、秀逸第一席に塩谷夜峡氏、同第七席に馬場移公子氏が選ばれました。選者である金子伊昔紅氏の講評は以下のとおりです。
俳誌「雁坂」休刊の記事です。「雁坂」は俳誌「わかあゆ」を継いで昭和21年に刊行された月刊俳誌ですが、200号で休刊となりました。なお、同年に伊昔紅氏は秩父馬酔木会を結成しています。
宝登山神社境内の「たらちねの母がこらふる子の種痘」句碑建碑に関する一連の記事。
句碑製作中の記事。句碑が三沢の青石産であることが述べられています。文中には兜太の名も見えています。
句碑建立にあたり建設委員会が設けられていたこと、皆野町の吉見屋内で打ち合わせが行われていたことが分かります。
5月25日の記事は句碑除幕式の速報、6月5日記事はその詳細です。
石塚友二の名が見えますが、同氏は石田波郷没後に俳誌「鶴」を主宰した俳人・小説家で、伊昔紅氏ともつながりがありました。伊昔紅氏没後、角川「俳句」誌に追悼記事が掲載されますが、石塚氏が執筆しています。