若林家では、およそ300年前鑑賞樹として庭に植栽したものと伝えています。樹勢にそれ程衰えを見せず、4月の初め他の桜にさきがけて、5弁の微紅色の花を散形状に5~6付けます。目通り周囲3m、高さ8m、この様な大樹の生存は稀で […]
駒形遺跡は、北へ向かって流れてきた荒川が、町のほぼ中央部で宝登山にぶつかり、東へ流れを変えた右岸の河岸段丘上に位置します。史跡の範囲は約2,400㎡ですが、遺跡全体の面積は約15,000㎡の広がりを持っています。隣の大背 […]
館跡は日野沢川左岸に南面した山腹に立地し、傾斜地に築いた石垣は2重3重に巡らされています。その角々には3か所の「食い違い門」が設けられ、石垣の上には更に土塀が続いていたと言われています。石畳もそのまま残り、江戸時代初期の […]
館跡は、中世の姿をよく残しています。東は蓑山の裾を利用し、背面北側は堀を巡らし、土居をあげた中世の遺構を残しています。庭園は、『新編武蔵風土記稿』に、「郡内第一ノ庭ト云テ、カナタコナタヨリモ游覧セルモノ多ク来ル̷ […]
の札所は、秩父観音霊場三十四番、日本百番(西国、坂東、秩父)の結願寺として、巡礼者が打留の札と笈摺を納める寺です。千手観音を本尊に、西方浄土を表す阿弥陀如来、東方瑠璃光世界を象徴する薬師如来を脇侍に配し、日本百番結願寺の […]
一里塚が字名となって残り、皆野町大字三沢字一里塚に残る一里塚跡で、熊谷通りを寄居で分かれ、釜伏峠を越えたところにあります。付近に新道ができ、別荘の開発などもあって周囲の様子は変わりましたが、残った石造物から三方の辻であっ […]
徳川家康は、慶長9年(1604)に5街道の整備を行い、主要道は道幅5間、1里を36丁と定め、1里ごとに塚を築かせ榎を植えて一里塚としました。この一里塚跡にも榎の古木が残り、樹齢300年と推定されます。中山道の支道、熊谷通 […]
秩父氏は桓武平氏の末に当たり、武蔵守を勤めた平良文(村岡五郎)の子孫に当たります。秩父庄司重能は秩父にあって代々武蔵総検職を世襲していた秩父権守重綱を祖父に、秩父太郎太夫重弘を父に秩父氏館(吉田町)で生まれました。秩父庄 […]
『新編武蔵風土記稿』に、「円福寺 平量山量寿院 此寺ハ郡中仏法最初ノ道場ナリ平親王将門ノ開基ナリト云伝フ将門墓五輪上ノ二ツ今毀折シテ文字読ムヘカラス」とあり、開基も墓も平将門としています。寺に残る『円福寺旧来記』では開基 […]
8月16日に行われます。シンコの笹竹に七夕に作ったノロセと炒りさごを吊し、送り竹を作ります。炒りさごは麦、大豆、粟などを炒り、一つまみの紙捻にしたもので、家族中の体を撫で、体に付いた虫を封じ込めます。各戸から子どもたちが […]