館跡は日野沢川左岸に南面した山腹に立地し、傾斜地に築いた石垣は2重3重に巡らされています。その角々には3か所の「食い違い門」が設けられ、石垣の上には更に土塀が続いていたと言われています。石畳もそのまま残り、江戸時代初期の […]
駒形遺跡は、北へ向かって流れてきた荒川が、町のほぼ中央部で宝登山にぶつかり、東へ流れを変えた右岸の河岸段丘上に位置します。史跡の範囲は約2,400㎡ですが、遺跡全体の面積は約15,000㎡の広がりを持っています。隣の大背 […]
明治21年市町村制を公布、22年4月1日施行。自治体がかたまると、次にすすめられたのが村と村をつなぐ道の距離を測るために村内主要道の中心地点を定め、そこに石の標識を設置させました。これを「道路元標」といい全国の村々にたて […]
明治21年市町村制を公布、22年4月1日施行。自治体がかたまると、次にすすめられたのが村と村をつなぐ道の距離を測るために村内主要道の中心地点を定め、そこに石の標識を設置させました。これを「道路元標」といい全国の村々にたて […]
明治21年市町村制を公布、22年4月1日施行。自治体がかたまると、次にすすめられたのが村と村をつなぐ道の距離を測るために村内主要道の中心地点を定め、そこに石の標識を設置させました。これを「道路元標」といい全国の村々にたて […]
この2本の柱は橋の欄干の端につけられたもので、親柱といいます。初代の郷平橋は、明治19年3月に完成の「木鉄混合トラス橋」で秩父新道開削にともない架設されました。わが国の最も古い時代のトラス橋に属するものです。架橋時右岸は […]
「やぐら」は谷間の斜面岸壁に穴を掘ったことから谷倉とも書き、岩倉が転訛したとも言い、物を貯蔵する倉や墓所として利用しています。 特に鎌倉時代から室町時代に山腹を横穴式に掘り、中に納骨したり五輪塔板碑等を納め墓所としており […]
『新編武蔵風土記稿』に、「円福寺 平量山量寿院 此寺ハ郡中仏法最初ノ道場ナリ平親王将門ノ開基ナリト云伝フ将門墓五輪上ノ二ツ今毀折シテ文字読ムヘカラス」とあり、開基も墓も平将門としています。寺に残る『円福寺旧来記』では開基 […]
秩父氏は桓武平氏の末に当たり、武蔵守を勤めた平良文(村岡五郎)の子孫に当たります。秩父庄司重能は秩父にあって代々武蔵総検職を世襲していた秩父権守重綱を祖父に、秩父太郎太夫重弘を父に秩父氏館(吉田町)で生まれました。秩父庄 […]
徳川家康は、慶長9年(1604)に5街道の整備を行い、主要道は道幅5間、1里を36丁と定め、1里ごとに塚を築かせ榎を植えて一里塚としました。この一里塚跡にも榎の古木が残り、樹齢300年と推定されます。中山道の支道、熊谷通 […]