一里塚が字名となって残り、皆野町大字三沢字一里塚に残る一里塚跡で、熊谷通りを寄居で分かれ、釜伏峠を越えたところにあります。付近に新道ができ、別荘の開発などもあって周囲の様子は変わりましたが、残った石造物から三方の辻であっ […]
徳川家康は、慶長9年(1604)に5街道の整備を行い、主要道は道幅5間、1里を36丁と定め、1里ごとに塚を築かせ榎を植えて一里塚としました。この一里塚跡にも榎の古木が残り、樹齢300年と推定されます。中山道の支道、熊谷通 […]
秩父氏は桓武平氏の末に当たり、武蔵守を勤めた平良文(村岡五郎)の子孫に当たります。秩父庄司重能は秩父にあって代々武蔵総検職を世襲していた秩父権守重綱を祖父に、秩父太郎太夫重弘を父に秩父氏館(吉田町)で生まれました。秩父庄 […]
『新編武蔵風土記稿』に、「円福寺 平量山量寿院 此寺ハ郡中仏法最初ノ道場ナリ平親王将門ノ開基ナリト云伝フ将門墓五輪上ノ二ツ今毀折シテ文字読ムヘカラス」とあり、開基も墓も平将門としています。寺に残る『円福寺旧来記』では開基 […]
8月16日に行われます。シンコの笹竹に七夕に作ったノロセと炒りさごを吊し、送り竹を作ります。炒りさごは麦、大豆、粟などを炒り、一つまみの紙捻にしたもので、家族中の体を撫で、体に付いた虫を封じ込めます。各戸から子どもたちが […]
8月16日に行われます。七夕飾りを集会所に持ち寄り、長い竿竹に取り付け、先端には幣束を差し込んで3本の梵天を作ります。長老が五色旗と幟旗を用意し、昼食後、集会所に各戸1人ずつが集まり、御神酒をいただいてから、梵天を先頭に […]
3月第3日曜日と前日に行われる赤城大神社の祭で、元々は、西福寺で始められた行事と言われる百八灯の精霊祭です。甲斐武田勢との戦いで討ち死にした鉢形北条の武士や農民の霊を慰める為に始まったと言われ、赤城大神社の参道に立つ30 […]
出牛人形浄瑠璃は文楽系の3人遣いの人形芝居で、幕末の頃を最盛期として、明治中期には上州方面でも興行したと言います。しかし、大正5年春、萩神社境内での上演を最後に出牛人形座は解散しました。昭和40年、埼玉県立文化会館での埼 […]
10月15日、日野沢大神社大祭に舞われます。明治14年、太田村熊野神社の神楽師により伝受されました。この頃秩父神社の神楽は中断されており、秩父神社祠官園田忠行が妻の里方である下日野沢村千廼宮祠官高橋富里に神楽団の組織と秩 […]
秩父神社系の神楽で、明治14年蒔田神楽から習ったものと言われています。皆野根岸の稲荷社に起こり、明治40年椋神社に合祀されてからも、神楽は旧稲荷社氏子の父子相伝で、諸道具も耕地持ちのまま椋神社祭礼に奉納され、昭和35年頃 […]